広島・草津がかまぼこの町である理由とその歴史 パート1

 

出野水産が本社工場を構える
広島・草津という町は

 

昭和中頃の全盛期には
かまぼこ屋が50件ほど
軒を並べるかまぼこの町でした

 

現相談役の出野昭子が
当時卸売市場へ買い付けに足を運ぶ際

 

領収書を入れるようなボックスが
各社割り当てられており

 

そのボックスの数を
数えてみたら50件ほど
だったらしいのです

 

広島に住む50歳以上の方は
草津といえばかまぼこだよね
とおっしゃってくださるのですが

 

若い方や県外の方には
広島=かまぼこ
というイメージがない方も
多いのが事実なので

 

今日は草津のかまぼこの歴史を
紐解いていきたいと思います

 

広島・草津のかまぼこの歴史

 

広島市は瀬戸内海に面してできた
三角州(デルタ)

 

市内には現在6つの川が流れている
水の都です

 

そもそも「草津」という名前の由来は
諸説ありますが

 

軍津浦輪(いくさつうらわ)
すなわち軍船の寄港地であったという説と

 

宇佐の神が祭られていた津
宇佐津(うさつ)などの説

 

どちらの説にしろ
港町であったため

 

現在のように陸路の発達する前
つまり水路で物を運び
商売が発達していた時代から
栄た場所でした

 

魚の陸揚げ地であったり
多くの海産物が集まる
港町です

 

文政時代(1818年)の頃
現代のような冷蔵・冷蔵技術が
発達していないため

売れ残った魚の処理方法といえば
魚に塩を加えて干物にするか
肥料にするしか方法がなかったそう

 

それでも
余った魚は捨てるしかなく
もったいないなぁ〜という
感じですよね

 

そして実は草津という地は
1530年代あたりから
牡蠣の養殖をしており

 

1670年代には
草津港から水路で運べる
水の大都会・大阪へ船で牡蠣を運び
商売をしていたのです

 

さらに牡蠣を運ぶだけではなく
「かき船」として
船の中で牡蠣料理や海鮮料理を
大阪の人々へふるまっていました

 

そのふるまっていた料理の一つが
魚の身に塩を加えて練り
団子のようにしたものを
煮焼きしたもの

 

そのかき船で出されている
魚肉団子製造方法を生かし

草津の魚屋が
「おれんかまぼこ 」と名付け
売り出したのが
草津のかまぼこの始まりと
言われいています

 

続きは明日〜

 

参考文献:
『郷土伝説軍津浦輪物語(改訂版)西都広島の郷土史』(広島郷土史研究会)

 

練りものコンシェルジュ
「いずえり」こと出野恵梨でした

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